大気環境の情報館

工場立地による局地的大気汚染(1880年~1920年頃)

(1) 神奈川県逗子市に立地し、小麦、塩酸、重炭酸ナトリウムから「味の素」製造を開始していた鈴木製薬所(現味の素)逗子工場による塩化水素大気放出に起因する農民からの苦情が、1903年に生産量 増加により頻発し工場移転要求も強くなりました。最終的に多摩川河口の川崎町移転が決定しましたが、1914年9月操業開始後も被害が発生し、賠償支払いを開始、1935年密閉式分解釜導入で被害が解消しました。

(2) 工部省セメント工場の払い下げを受け東京深川で創業した浅野工場(後の浅野セメント東京工場)のダスト飛散は、1903年米国アリス-チェアマー社より新式の回転焼成炉を導入・稼動するにおよび表面化し、1907年区民による工場移転要求を承諾するまでに譲歩しました。1917年神奈川県橘郡田島村で川崎工場の操業を開始していますが、稼動直後からセメントダスト飛散により田島村、太子川原村で農作物、養殖貝類、海苔への被害が発生しました。神奈川県知事は工場操業中止を訴える村民陳情で工場に改善を求め、浅野セメントは賠償金の支払いを行いました。その後も紛争は継続しましたが、昭和初期の経済恐慌で工場操業縮小により終結しています。

(3) アームストロング社が神奈川県中郡平塚町で操業した火薬製造工場の排ガスで平塚町鎮守八幡神社の松が枯れてしまったと1915年の新聞が報じています。

(4) このほか、1888年の大阪電灯会社や1912年の大阪市営九条発電所の煤煙問題があったほか、1916年大阪アルカリ会社の二酸化硫黄(SO2)排出が周辺農地に被害を与え裁判問題に発展しています。

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