大気環境の情報館

高度経済成長と公害の激化(1965~1974年:昭和20年~30年代)

1973年の第1次石油危機(オイルショック)の発生まで、日本経済は高度経済成長を続け、1960年代後半の実質経済成長率は10%を超えていました。この間、エネルギー需要は拡大を続け、1965年~1974年の10年間に2倍強、1955年頃から見れば実に7倍に増大しました。

この時期は、大気汚染のみならず、水質汚濁、自然破壊、新幹線などによる騒音・振動などの問題も日本各地で顕在化し、深刻度を増していきます。また、1968年には、厚生省により、イタイイタイ病の原因は、三井金属鉱業株式会社の排水によるものとする見解が発表されました。また、水俣病については、熊本県水俣湾周辺で発見されたものは、新日本窒素肥料(株)(チッソ(株)の前身)、新潟県阿賀野川流域で発見されたものについては、昭和電工(株)の工場排水であるとする政府統一見解が発表され、これらの健康被害が産業型の公害によるものであることが明らかになっていきました。

こうした結果、経済成長と環境保全とを二者択一の問題ととらえ、「産業発展のためとはいえ、公害は絶対に許せない」とする国民世論が急激な高まりをみせ、ようやく公害対策に関する施策が総合的に進められることとなりました。

そのような中、1972年に四日市公害裁判について、原告被害者側勝訴の判決が出されました。同判決が政府及び産業界に及ぼした影響は大きく、公害に関する損害賠償補償制度の速やかな確立が産業界を含め各方面から要望され、1973年(昭和48年)には、公害健康被害補償法が制定されるに至りました。

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