大気環境の情報館

四日市公害裁判の判決(1972年)

三重県四日市市の大気汚染は1960年塩浜地区のコンビナート稼動に引き続いて午起地区のコンビナートが稼動し始めた1963~1964年頃に最悪の状態を示しました。
四日市の1964年における二酸化硫黄(SO2)濃度は磯津地区で年平均値が0.075ppm(現行の環境基準の概ね4倍弱相当)であり、時には1時間値の現行環境基準0.1ppmの10倍である1ppmを超えたりすることもありました。
こうした激甚な大気汚染の中で生活する住民の多くが各種の呼吸器障害を訴え、その発症率は非汚染地区の2~3倍、あるいはそれ以上に及んでいました。大気汚染に苦しむ住民達は、自身が公害による健康被害との認識を持たない人にもその認識を得るよう働きかけ、また、地域社会の公害による健康被害への偏見や差別を超えて次第に結束を強めていきました。その具体的で大規模な被害者の行動が1967年9月に提訴された四日市公害訴訟です。
四日市公害裁判の判決は、1972年7月に出され、当時としては最新の技術によって防止措置を講じていたという被告企業の主張を退け、企業が人間の生命、身体に危険のあることを知り得る汚染物質の排出については、経済性を度外視し、世界最高の技術・知識を動員して防止措置を講ずるべきであり、そのような措置を怠れば過失は免れないこと、また、因果関係については疫学調査の結果から明らかであること等を示していました。

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