2026年春からのNHK連続テレビ小説は、日本の看護師の先駆者である大関和(おおぜき・ちか)と鈴木雅(すずき・まさ)を主人公のモチーフとした「風、薫る」に決まりました。大関和は1888(明治21)年、日本初の近代教育を受けた看護婦となり、東京看護婦会会頭を務めるなど、看護学の発展や防疫などに努めました。
すこやかライフをご覧のみなさんも、普段のケアにおいて看護師と関わる機会が少なくないと思います。本コラムでは、大関和の生涯と看護師誕生の歴史を専門家などに聞いて振り返りながら、看護師の仕事について考えます。
第1回は、「風、薫る」の原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」の著者である田中ひかるさんに、大関和の行動や人柄、歴史的役割などについて聞きました。
大関和は夫と離婚して上京し、実家に身を寄せながら2人の子どもを育てていました。牧師の植村正久と出会い教会に通うようになり、植村の勧めで桜井女学校付属看護婦養成所に入学しました。1887(明治20)年、帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院)がトレインド・ナース(専門的に学んだ看護師)を養成することを決め、桜井看護学校からも大関和、鈴木雅ら6人が第一医院で実習することになりました。「看病の要旨」「薬餌(やくじ)用法」「包帯術」「消毒法」など9項目を学びました。1888年、大関和らは修了式を迎え、トレインド・ナースになりました。この年は慈恵看護婦教育所、京都看護婦学校が最初の卒業生を出していて、日本におけるトレインド・ナース誕生の年と言えます。
大関和が看護婦になった時代には、「看護婦は金のために汚い仕事も厭わず、命まで差し出す賤業(せんぎょう)」と見なされていました。
大関和は第一医院で外科の看病婦取締になりました。抗生物質のなかった当時、衛生の知識に基づいた術後管理はトレインド・ナースの腕の見せ所でした。担当する患者の術後はいずれも良好で、大関和の名が知られるようになりました。しかし、看護婦の仕事が忙しすぎて学ぶ時間がないことから、大関和は教授宛に看護教育の充実と看護婦の待遇改善を求める建議書を提出しました。この行動が医師の反発を招き、大関和は第一医院を去ることになりました。
大関和は1891年、新潟県の知命堂病院で看護婦長になります。附属の看護婦養成所で教員も務め、多くの看護婦を育てました。当時、全国的に赤痢が大流行していました。大関和は自身が育てた看護婦たちと現場に赴き、徹底して衛生的な環境を整えました。こうした活動により死者数は激減し、大関和は防疫の専門家として有名になりました。
大関和は鈴木雅が設立した東京看護婦会で、雅を支えながら働きました。1890年代後半、家庭や病院に出向いて看護する派出看護婦会が乱立し、十分な教育を受けない派出看護婦が増加しました。大関和は看護婦に一定の教育を課す制度や資格の整備などに取り組みました。その結果、全国に先駆けて、1900年に東京府が「看護婦規則」を制定しました。これにより、看護の教育や資格制度が充実するとともに、看護婦の職業地位が向上していくことになります。大関和は60代半ばまで看護婦として働きました。
明治という時代に、シングルマザーとして自立して生きたということ自体がすごいことだと思います。大関和が亡くなったとき、新聞では「職業婦人の先鞭をつけた」と、大きく報じられました。大関和は近代看護教育に基づく看護、衛生を重視した防疫、キリスト教の精神に根ざした献身的な看護により、看護婦の評価を高め、看護婦の職業の礎を築きました。かつて賎業と言われた看護の仕事は、人々の健康や命を守る尊い職業として、広く認知されています。それは大関和をはじめとした先駆者の努力があったからこそです。生涯をかけて看護婦の技能向上と制度化に努めた大関和の功績は極めて大きいと思います。
黒羽藩(現在の栃木県大田原市)家老の家に生まれ、18歳で結婚し、1男1女をもうけた後、離婚して上京した。牧師の植村正久に師事する。1887年、鈴木雅らと共に桜井女学校付属看婦養成所に1期生として入学、来日したエジンバラ王立救貧院病院看護学校卒業生のアグネス・ヴェッチからナイチンゲール方式の看護教育を受け、1888年、近代教育を受講した看護婦となった。帝国大学医科大学附属第一医院外科の看病婦取締、新潟県の知命堂病院看護婦長などを経て、鈴木雅が設立した東京看護婦会の会頭などを務めた。
田中ひかるさん
1970年東京都生まれ。博士(学術)。女性に関するテーマを中心に執筆・講演活動を行っている。著書に「生理用品の社会史」(KADOKAWA)、「明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語」(中央公論新社)など。