大関和に学ぶ看護師誕生の歴史 ②「卑しい職業」から、なくてはならない専門職に

2026年春からのNHK連続テレビ小説「風、薫る」の主人公のモチーフとなった看護師・大関和(おおぜき・ちか)の生涯と看護師誕生の歴史を振り返りながら、看護師の仕事について考える連載の第2回は、聖マリア学院大学名誉学長の矢野正子先生(元厚生省看護課長、元東京大学医学部教授)に、看護の歴史や課題を聞きました。

近代看護師教育の始まり

――近代看護の成り立ちを教えてください。

近代看護の基礎を築いたのはナイチンゲールです。彼女は、ロンドンにナイチンゲール看護学校を創設し、イギリス各地で看護学校を作りました。そして、ナイチンゲール方式と呼ばれるトレインド・ナースの育成を開始したのです。​

ナイチンゲールは看護婦(現代の看護師)は「訓練という目的のために組織された」病院で技術的に訓練されるべきであり、女性が自立するための経済的基盤を確立することが必要だと考えていました。また、衛生管理を徹底し、新鮮な空気や清潔さといった環境を整えることも重視しました。​

――日本に看護婦教育が入ってきた経緯を教えてください。

エジンバラ王立救貧院病院看護学校の卒業生であるアグネス・ヴェッチが来日したのを機に、ナイチンゲール方式の看護教育が日本にも広まることになります。​

東京大学医学部附属病院の前身である帝国大学医科大学第一医院で1888年に看病法練習科が創設され、アグネス・ヴェッチが桜井女学校附属看護婦養成所一期生の大関和や鈴木雅(すずき・まさ)ら6名と、帝大医院の看病婦講習生22名の計28名に看護学を教えました。

鈴木雅が慈善看護婦会として設立し、1893年に東京看護婦会と改称しました。大関和は鈴木雅から東京看護婦会の経営を引き継ぎ、看護婦の重要性や社会的意義について普及しました。

――当時、看護婦の仕事は「汚い」「卑しい」などと思われていましたが、どのように変化するのでしょうか。

その認識が変わったのは、日清戦争がきっかけです。日本赤十字社の看護婦が召集されて、国外・国内での戦時救護のため、現地に行きました。戦争に勝って凱旋した時に、看護婦の活躍が知られるようになりました。これを機に、看護婦への見方が変化し、看護婦志望者が増えたようです。

看護教育や看護師制度の変遷

――矢野先生は、厚生省(現在の厚生労働省)の看護課長だった頃、看護教育や制度の充実に取り組まれていましたね。

教育や制度については大関和らの尽力によって発展してきましたが、それでも日本はアメリカに比べて遅れを取っていました。アメリカでは20世紀初めから看護師を専門職として育てるという考えで、大学での看護教育を強力に推進していましたし、訪問看護も盛んでした。

そこで私は、アメリカで視察した経験を生かし、さまざまな提言や働きかけを行いました。

まず看護教育では、看護の大学や大学院をたくさん作り、専門看護師を育成することに力を注ぎました。当時、看護の4年制課程のある大学は11しかありませんでした。しかし、2024年度には286大学304課程に拡大しました。「看護師等の人材確保の促進に関する法律」の制定にも取り組み、1992年に制定されました。

訪問看護制度は、私の考えに共鳴してくれた厚生省老人保健福祉局長が実現に向けて動き、1991年に老人保健法を改正して法制化、1992年に老人訪問看護開始、1994年の健康保険法改正で全ての人に訪問看護実施となりました。

免許更新制度などが課題に

――看護の課題には、どんなことがありますか。

日本では医師と看護師には、免許更新制度がありません。多くの国ではその制度があります。実力を向上させるためには数年ごとの免許更新が必要です。例えば米国にはナース・プラクティショナーという資格があります。高度な医学知識と実践能力を持つ臨床専門家として、医師や多職種と連携し、プライマリー・ケアを中心に診断・治療を行うことができる公的資格です。日本でも早急に検討すべき課題です。

現代に受け継がれる大関和が作った看護の礎

――大関和の時代と現代の看護の違いは。

現代の看護はヒューマンサイエンスを含めた実践科学としての看護を追求しています。看護師の地位は昔と違って向上しましたが、仕事の大変さに比べて報酬は十分ではないですし、医療行為は医師が看護師に指示する、という関係は明治・大正以来、変わっていません。

大関和は看護婦の地位を向上させようと努力し続けた人、看護師として自主的に仕事をするという強い信念を貫いた人でした。そういう人がいたということを、もっと多くの方に知ってもらいたいですね。

――ぜん息やCOPDなどの呼吸器疾患患者さんのケアの場面で、大関和の心得はどのように受け継がれているのでしょうか。

大関和は患者の疾患に応じたさまざまな看護の工夫をしていました。呼吸困難な時の体位もその一つです。私も臨床の看護師だった時期に、人工呼吸の挿管をしやすいベッドにするなどの工夫をしていました。大関和の看護の姿勢は現代にも通じると思います。

矢野正子先生

東京大学医学部衛生看護学科卒。看護師として東大病院分院、都立府中病院、都立神経病院などで勤務後、1984年に厚生省入省、1985年看護課長。訪問看護制度の創設や、看護職需要の増大に対応した「看護師等の人材確保の促進に関する法律」の制定に尽力。退省後、東京大学、静岡県立大学、藍野大学、聖マリア学院大学で後進の看護教育に従事。