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西淀川大気汚染公害裁判

被害者の苦しみ

大気汚染が原因でぜん息になり、苦しんだ人がたくさんいました。病気になった人の苦しみだけでなく、家族に迷惑をかけ、治療費が家計を圧迫するなど、苦しみが広がっていきます。ここでは、西淀川公害訴訟の原告であり、24歳で世を去った南竹照代さんの人生を紹介します。

南竹照代さん

◆ぜん息発作の苦しみ

「発作が起こると緊張して体がカチカチになるので、背中をさすり、肩を揉んでやります。汗びしょびしょにかくのに、着替えをさせることができないのでタオルを背中や胸に差し込んでやります。失禁をするので、下着を替えてやります。嘔吐のためにパジャマやタオルを何枚も汚しますので大量の洗濯物が大変でした。」
公害健康被害補償法による認定は、74 年から気管支喘息一級、76 年から特級、78 年から 81 年の死亡時まで一級となっている。就職はおろか、亡くなる数年前からは病院の外に出ることさえままならなかった。
照代は 1956 年 10月 28日、鹿児島県串木野市で生まれた。一家は照代が小学校に上がるすこしまえ、西淀川区大和田に移ってきた。
引っ越してきて一年あまりたったころからしつこい咳をしはじめ、食事さえ満足にとれないようになる。病院で診察を受けると、「喘息です。すぐに入院してもらう」と言われ、その日から数ヶ月間入院。以来、中学、高校、卒業後と病状はしだいに重くなっていく。
発作は深夜から朝方にかけて起きる。最初は梅雨の時季によく起きていたが、そのうち季節を問わず出るようになり、中学校に入る頃からは発作が起きない日はないようになった。注射をして 2~3 時間で止まることもあれば、注射を打ってもおさまらず、2~3 日、一週間と続くこともたびたびであった。照代は生前、西淀川公害訴訟の原告になったが、死後母親が引き継いだ。母親は裁判でこう陳述している。
「発作のときはヒーヒーというような呼吸になります。唇は紫色になり、食べたものを全部吐いてしまいます。もちろん、話すこともできず、ベッドの上に座り、布団に前かがみにもたれて目を閉じてじっとしています。私はそばについていますが、自分のまわりで人の気配があることだけでわずらわしいようで、私が話しかけるのもいやがりました。生前、照代は『発作のときに他人が部屋にいると空気が減るように思う』と言っておりました。」
小学校二年生の照代さん
小学校二年生
淀中学校入学式の照代さんと母親
淀中学校 入学式
病院のベットの上 ぜん息発作中
病院のベットの上 ぜん息発作中

◆医療費の負担

発作が起きると本人はもちろん、家族もほとんど眠れない。
「照代が深夜に発作を起こすと、家族みんなが起こされてしまいます。 父親としても大工という職業柄、高いところに登って働くのに、眠れないということでつい腹が立つのでしょう。『仕事に行かれん。働きに行く者の身にもなってみろ』と怒鳴ります。」
そのような時、照代は発作にあえぎながら「お父ちゃん、ごめんな。ごめんな」と謝っていた。
「照代の最後の数年間の私の生活は、寝たとも起きたともわからないような毎日でした。私も公害病三級認定の患者(慢性気管支炎)です。照代の看病の合間に病院で治療していましたが、自身の身体をいとう余裕はありませんでした。」
発作はほとんどが深夜から朝方に起きるので、照代が小さいころは頻繁に往診を頼んだ。
「平均して一週間に2回くらいは往診してもらっていたと思います。一日朝晩2回来てもらうこともありました。治療代に加えて、往診料もいりますので、照代の医療費が本当に大変で、私が働いた収入のほとんどは、照代のために使ってしまいました。」
入院をくり返すようになってからは、個室に入るための差額ベッド代が重くのしかかった。当初は6人部屋に入っていたが、毎晩のように起こる発作が他の患者の睡眠を妨げる。「夕べ眠られへんかった」と苦情を言われることもたびたびとなり、あわせて酸素吸入の措置が常時必要となったことから、個室に移らざるをえなくなった。
公害病認定患者には、70年から特別措置法により医療費が、74年から公害健康被害補償法により医療費と若干の生活保障が支給されるようになったが、それ以前は何もなかった。
「(法律が)できる前も病院代などで苦しかったのですが、できてからも補償給付では追いつきませんでした。私は付き添いのために仕事をよく休み、収入がだんだん減りました。」
補償費は病院の支払いのために使われる。それでも追いつかないので借金して支払うほかなく、照代が死んだとき、多額の借金ができていた。遺族補償は全額借金返済と葬儀費用にあてたが、それでも借金が残った。

◆学校への思い

照代は、すこしでも学校に行けそうなときは、どうしても行くといってきかなかった。しかし、一日の終わりまで学校にいられることは数えるほどしかなかった。高校生活はさらに困難を極めた。一年のうち遅刻、早退を含めて、とにかく「行った」という日が三分の一、そのうち授業終了まで学校にいることができたのは 7~8 日ほどしかなかった。
よくいじめられもした。
「あんた公害や言うてるけど、国からカネもろうてるやんか、と言われ階段から突き落とされたいうて泣いていたことがあります。そのあと入院したとき、その子が見舞いに来て、両手に点滴しているのを見てびっくりして謝ってましたけど。いくら発作で苦しくても、つらい思いをしても、照代が学校をやめると言わなかったのは、学校に行きたいと思い続けることで自分を励ましていたのだと思います。」

◆1981年 8月2日死去 享年24歳

「死んだ照代の体を伸ばして、白地に花柄のゆかたを着せたら、大きかった。いつも縮こまっていたから、この子こんなに大きなってたんやなって。」

新島洋『青い空の記憶-大気汚染とたたかった人びとの物語』(教育史出版会、2000)より抜粋、編集
写真は西淀川・公害と環境資料館(エコミューズ)所蔵

南竹照代さんをはじめとした西淀川公害被害者の記録は、西淀川・公害と環境資料館(エコミューズ)に保存しています。
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