大気環境の情報館

日立鉱山における煙害(1910年頃)

1907(明治40)年3月、茨城県日立鉱山北側に位置する三集落で栽培されている蕎麦に激しい被害が発生しています。当時栽培されていた農作物では夏蕎麦が最も感受性が高いとされていました。

被害反別は三反六畝十五歩(約36a)、被害歩合七割五歩、被害石数二石七斗四升四合、補償金額18円3銭3厘とのことでした。秋蕎麦にも被害がさらに大きく発生し、被害反別は約一町八反(1.8ha)に及び補償金額は70円を超えました。その他、松、栗等の山林被害が確認され98haの栽培面積にある直径約40cm(三寸)以上の、5,300本につき樹木価格の4割(約780円)を補償しています。翌年には被害はさらに拡大し、農作物は蕎麦に加えて大麦、小麦、大豆、栗、稗及び疏菜に、山林は松、栗に加えて杉、檪、雑木林等の立木に及びました。そして、明治41年10月には地元住民と日立鉱山鉱業人との間には煙害の植物被害の補償について9条に及ぶ契約書が交わされています。

日立鉱山は、煙害処理の過程で、当初低い煙突から強制排気する拡散方式を採用しましたが効果がなく、周辺地域への大気汚染被害補償額が著しく高くなる結果となったため、気球を使った高層気象観測を行い、高煙突が排煙の希釈には効果的なことを確認し、1914年に標高325mの山上に高さ156mの大煙突を立て大気汚染の拡散を行っています。

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