大気環境の情報館

大気汚染の克服に各々が果たした役割と努力

(1) 住民運動が果たした役割

大気汚染を防止するための住民運動としては、1950年代初頭から横浜等において、住民数百名規模の行政に対する陳情が行われていましたが、1963、1964年の三島・沼津地域で起こったコンビナート建設反対運動が特筆されます。当時既に深刻化していた四日市の公害を背景に、農漁民対企業という従来の公害紛争の型を超えて広く一般市民の関心が高まり、三島市、沼津市及び清水町の地方議会がコンビナート建設反対決議をするなどの動きもあり、コンビナート計画は中止されることとなりました。
また、実際に大気汚染によって被害を受けた住民は裁判による運動を進めました。その代表的な例の一つである四日市公害裁判は、1967年に住民側から提訴され、1972年に住民側勝訴の判決を得ました。
日本において、公害問題にかかわる住民運動は、地方公共団体、国、そして企業の公害防止努力を促す原動力となりました。現在これらの公害反対運動に端を発する取組は、公害に汚染された地域の再生の取組みやリサイクル運動などにより幅広い活動へと展開しています。

(2) 地方公共団体が果たした役割

1949年に東京都工場公害防止条例が制定されたのをはじめとし、1950年には大阪府事業場公害防止条例、1951年神奈川県事業場公害防止条例、1955年には福岡県公害防止条例というように、いくつかの地方公共団体において公害防止条例が制定されました。さらに、1955年には東京都ばい煙防止条例が制定されました。しかし、これらの条例は、大気汚染のおそれのある工場の設置等の届出手続を定めるのみで、定量的な基準によって排出規制を行うものではありませんでした。
1960年頃になると京浜、阪神、北九州などの大気汚染はいよいよ顕在化し、公害問題として意識されるようになりました。
1962年に制定されたばい煙の排出の規制等に関する法律が翌年改正され、地方公共団体は政令で定めるばい煙発生施設以外の施設についても条例の対象とすることが明確化され、同法の下で地方公共団体が国の公害防止施策を先導する役割を果たしました。
1969年に東京都で公害防止条例が制定され、工場又は施設の届出制のほか環境上の基準の設定、公害の防止に関する計画の策定等に関する規定が盛り込まれていました。その2~3年後から神奈川県などいくつかの地方公共団体の公害防止条例の中に実質的な総量規制の導入を図ったものが現れており、その後、大気汚染防止法にも取り入れられることとなりました。
地方公共団体では、公害防止条例の制定以外に、企業と公害防止協定の締結するなど地域の実情に即した柔軟な対策の実施が図られました。また、公害問題の初期においては、測定技術、対策技術の開発等にも地方公共団体の技術者が大きな役割を果たしました。

(3) 国の取組み

地方公共団体の取組に比べて、国における公害対策はなかなかスタートせず、1955年までは特筆すべきものはありませんでした。
1955年に厚生省が「生活環境汚染防止基準法案」を作成公表しましたが、産業関係諸団体、関係省庁の反対が強かった等のため、国会提出は不可能となりました。
その後、公害問題が深刻化したことを受け、1962年6月に「ばい煙の排出の規制等に関する法律」が制定されました。また、四日市の大気汚染の実態を明らかにするため、厚生省と通商産業省は共同で黒川調査団を編成し、汚染影響調査、発生源対策調査を行いました。このころから、公害の対象範囲、公害発生源者の責任、国、地方公共団体の責務の明確化など、施策推進の前提となる基本原則を明らかにすべきとの声が高まり、1967年7月「公害対策基本法」が成立しました。
この公害対策基本法により、目標とすべき環境の状況を環境基準と定め、その水準を達成することを目標として規制その他措置を講ずることが定められ、1969年に硫黄酸化物について環境基準が定められました。この基準は、1973年に「1 時間値の1日平均値が0.04ppm以下であり、かつ、1時間値が0.1ppm以下であること」と改定されました。また、公害対策基本法を受けて、1968年6月に成立した「大気汚染防止法」に基づき、硫黄酸化物に対し、K値規制が導入されました。この方式では、排出口の高さと地域に応じて排出基準が決定されました。この地域における排出基準は、1976年までに8次にわたりほぼ毎年強化される一方、1974年の改正では総量規制制度が導入されました。
これらの相次ぐ規制強化に低硫黄化などのエネルギー政策もあいまって、硫黄酸化物による大気汚染は着実に改善していきました。国における対策は、事実上、一部の地方公共団体の先進的な取組の後追いという面があったことは否定できません。しかし、大気汚染による健康影響の防止は、特定の地域の住民だけでなく、国民全てに対して等しく確保されなければならず、国民の健康の保護というナショナルミニマムを達成するために、国が法律によって全国一律の規制基準を定め、これを企業が遵守するということによって、大気汚染防止対策が確実に実行されることになったのです。

(4) 政治が果たした役割

公害国会の招集(1970年)」参照

(5) 企業の対応とその努力

1955年から1967年頃までは企業の公害対策への取組は、決して積極的とは言えないものでありました。
1967年の「公害対策基本法」、1970年のいわゆる公害罪法や1972年の大気汚染防止法等における無過失責任損害賠償責任規定の導入に対しても、それら法案の調整段階において産業界は、立法に消極的な立場をとっていました。しかし、被害住民との交渉や地方公共団体及び国の規制が始まったこと、公害裁判において敗訴したこと等を背景に、企業の公害に対する意識は急速に変化し、公害対策の必要性を企業の社会的責任として受け止め、公害対策を実行に移して行きました。
1966年から1971年にかけて、民間の公害防止設備投資額は対前年度で34%から69%の伸びを見せ、このうち公害防止投資の割合は1970年度には約5%、1972年度には約6%に上昇しました。第1次石油危機後の1975年度に投資額で9600億円、全民間設備投資額に占める割合は17%となりました。その結果、公害防止投資は企業が最も高いプライオリティを置く投資項目の一つとなりました。
企業はこの公害防止投資を通じて、様々な公害防止技術・ノウハウを開発しながら、厳しい排出基準に適応していきましたが、この際、熱管理士や公害防止管理者等の制度により、技術者が企業内で組織され、公害対策の技術的基盤が形成されました。

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